2010/04/12

improper me in the right world

それなりにsensibleではあるけれど、sensitiveではない。単なるないものねだりなのか、sensitiveになれたらいいなぁと常々思います。

感受性を敏感に、または豊かにするにはどのようなmethodがあるのでしょう。敏感ではなく流すことによって享受するものも多々あって、まあ恩恵を受けていることも確かなのだけれど。

I would face something or read books with so much excitement or a sense of exaltation when I was a little kid, でもその傾向が薄くなっているということは自己防衛策のひとつの現れなのでしょうか。

ただ自己防衛機能としてcriticismに乏しい必要はないし、maybe I’ve been just growing up in a spoiling circumstance(少なくとも最近テレビでよくfeatureされている体育会シゴキ系新入社員研修の様子などをみるたびにそう感じる).

Criticalかつsensitiveになれたら、という思いにさせる本として、dostoyevskyの「地下室の手記」(これはcriticism以上に性格の悪さが必要?)と加藤周一の「羊の歌」の2冊が私の中にはあったのですが、新たに加えたいものとして、文月悠光の「適切な世界の適切ならざる私」。

中高時代に感じるようなモヤモヤを、私などは適当に丸めてなんとなくそばにおいて小さくなっていくのを待ってしまった感があるけれど、この詩集では真っ向から向き合ってちゃんと言葉として力強く吐き出しています。

日常生活の現象としての詩を遠ざけながらもそれを目撃したい人たちに向けて編み出しました、と言ってくれているのが有難い。今は振り返るだけの、あの時代に出会っていたら少し嬉しい本だったのだろうな。

0 件のコメント: